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胆力 [三国志]

三国志で力量のある人物として認められる尺度の一つが、胆力。

困難な状況や脅しに屈せず堂々と振る舞う様。
そこに人物への敬愛の情が生まれる。
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才能は劣れども、人柄は優る。 [三国志]

弟諸葛亮との比較論における諸葛瑾に対する評価。

出来のいい弟を持つ優しい兄という姿が思い偲ばれる。

だが、意地悪い見方をすると、諸葛亮の人柄はそれほどまではなかったとも
読める。

この見方は穿ち過ぎだろう。
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費禕と来敏の逸話 [三国志]

244年の魏軍による漢中侵攻の際、出陣直前に来敏が費禕を訪ねてきて
「しばらく君と会えなくなるから、日頃の囲碁の決着をつけておこう」と申し出た。
費禕は勝負を受け、二人で囲碁を指し始めたが、出陣に際して周囲が慌しくなってゆく様子に、
来敏の方が耐えられなくなり「君を試すつもりで勝負を申し出たが、この度胸の据わり具合
ならば、いざ前線にあっても何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した。
果たして費禕が前線に赴き、既定の方針に従って指揮を執ったところ、見事に魏軍を
撃破し退けたという。

この話大きく2つに評価が分かれる。

費禕の胆力の大きさを評価する意見。
反対に危機の際に気のゆるみを見せ、最期に命を刺客によって奪われた費禕の
慎重さの無さと批判する意見。

どちらを選ぶかはその人次第という逸話だろうか。
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演義と正史で馬超が死ぬタイミングが違う理由 [三国志]

馬超が演義で死ぬのは・・・。
実は「死んだ」と語られる。
それは第一次北伐の出兵の際。病死だったようだ。いつ死んだのか言及されない。

それでは正史では?というと、劉備宛に遺書を書いている。劉備が死ぬ一年前の
222年に死去。

馬超の正史での劉備傘下の後の活躍はほとんど見られない。精細を欠いてしまっている。

演義はそれが忍びなかったのか。劉備の荊州侵攻の際も、魏の最前線である漢中は
馬超がいるので安心と書かれ、諸葛亮の南征も、馬超が魏に備えていることに
なっている。

ところで、本来上記の漢中の守備の役割を史実で果たしているのは魏延だ。
演義は案外魏延の功績をカットするために、馬超に振り替えたのかもしれない。

この憶測が当たっているとすると、演義は随分と魏延を毛嫌いしているということになるが、
案外当たっているかも(笑)。

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諸葛亮は北伐でどう戦おうとしたのか? [三国志]

蜀の人口は魏の5分の1程度。
もちろん、国力と人口は必ずしも比例するものではない。
とは言え、人口差を埋めて戦争で勝つには、無理気味に徴兵して、”兵士率”を
高めたり、兵器や軍略を相当高めるくらいの方策しか思い浮かばない。

蜀は占領して10数年の国であり、無理な軍役や税負担は国民の支持を失い政権の瓦解に
つながる。諸葛亮は政治に明るい人物であり、そのような行為には走らない。

兵器の差で大軍に勝つ。文明の程度で言えば、中原(文化圏)を抑えた魏に対して
蜀は劣位。となると、軍略で例えば、狭い場所に魏の大軍を誘い出して、火攻めで
魏の大軍の全滅を狙うといった戦法が思い浮かんだ。

しかし、それとて仮に有効であり、魏軍に大打撃を与えても、諸葛亮に対する遺族の
恨みを大いに買うことは想像に難くない。仮に魏軍を打ち払い領土を得ても
人心をつかめないだろう。

諸葛亮は北伐をどう戦おうとしたのだろうか?第一次北伐の陽動作戦のように、
兵力をお互いに損ぜず、少しずつ領土を得ながら、近隣の魏の領土から自ずと
帰順するような構想でもあったのだろうか。謎は謎のままである。
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男子三日会わずして刮目して待つべし [三国志]

三国志に出てくる言葉の中で好きな言葉のベスト3に入る。

男子たるもの、短期間でも目を見張るような成長を遂げる存在であるよう
自分をブラッシュアップしたいものだ。

この言葉の”発信人”呂蒙はその良い手本と言えそうだ。
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袁術の政策に近い国 [三国志]

善政とはほど遠く、民から搾取し苛斂誅求という言葉を地で行くような政治、
そして、国力を度外視して兵力を増強した軍事国家ぶり。
自らの生活だけ奢侈で民を餓えさせた男袁術。

某北の国の怪しいトップを見ると袁術を彷彿させられる。
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今の日米関係は三国志で言えば・・・。 [三国志]

荊州の領土問題でもめつつも、とりあえず同盟関係にあった頃の劉備と孫権の関係のように
思える。

<孫権勢力と今のアメリカの共通点>
・天下よりも自勢力第一主義
・いうことを聞かないのならば実力行使

<劉備勢力と今の日本>
・立場的に同盟を破棄されると自分の方が不利

戦争にはならないでほしい。くれぐれも。

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劉禅が叩かれる理由 [三国志]

三国志演義のイメージで叩かれやすい劉禅。

正史を読む限りでは「糸のように周囲の補佐する人物によって、よくもなり悪くもなる」
と評され、そこまで酷い人物ではないと感じる。

彼の無能さを強調されている理由は以下の2つの事績ゆえではないだろうか。

1.本来、まだ魏軍に抵抗する余力がありながらあっさり降服して、父劉備や諸葛亮の
  事業をあっさり放棄したこと。
2.蜀が懐かしいかと問われた際に、「ここ(洛陽)が楽しいので、蜀を思い出しません」
  と無感動に答えたこと。

1は、激しく抵抗すれば蜀の兵士、民衆の犠牲がさらにひどくなった可能性が有り、けっして
責められることではない。
やはり、2の「バカ者」と言われる要素の強い発言が大きく影響しているように思える。

そして、国も会社も滅ぼしてしまえば、批判の対象になるのは宿命なのだろう。
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張松が曹操を愚弄する場面 [三国志]

三国志演義で劉備贔屓、蜀贔屓の読書はさぞかし溜飲を下げる場面だろう。
曹操がコテンパンにおちょくられる。
赤壁で負けたとはいえ、依然絶大な勢力の曹操に対して歯に衣着せぬ発言をする張松。

もっとも、このエピソードが無ければ、売国奴としての誹りは免れない行為をしている
張松。もっと惨い扱いをされたかもしれない。
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万骨を枯らす愚将 [三国志]

まともな部隊も指揮官が駄目であれば全滅する。

守るべき時に攻めれば、自ら死地におもむくようなものだ。
功をあせり、彼我の実力をわきまえず戦う将の率いる軍には未来が無い。

三国志で言えば袁術、孫晧辺りがその代表例だと私は考える。
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裴 潜・・・劉備を”正確に”(?)評価 [三国志]

中国後漢末期から三国時代の政治家。字は文行。司隷河東郡聞喜県の人。

名家の出であるが、母の身分が低く、また自身も若い頃に礼を軽んじる行動をとったため、
父には疎んじられていたという(『魏略』)。

戦乱を避け、当時安定していた荊州に身を寄せた。同じく北方から避難してきた王粲・
司馬芝と親しくし、客将である劉備とも交流した。自身も劉表に招かれたが、裴潜は
劉表がその器量と不釣合いの野望を持っており、その覇業が大成しないことを見抜い
たため、さらに長沙へ下っていった。

曹操が荊州を平定すると、曹操に見出され参丞相軍事に採り立てられた。いくつかの
県令職を務めた後、中央に戻り倉曹属となった。曹操から、以前交流のあった劉備の
人物像を質問されたため、中央においては乱を平定するまでの才能は持たないが、地方に
おいて一勢力を構えるだけの器量は持っている、という旨の回答をした。

その後は再び地方に赴き、沛国の相を経て兗州刺史となった。

219年、孫権が合肥に侵攻したとして、豫州刺史の呂貢と共に揚州へ援軍に赴くよう曹操に
指示されたが、温恢の忠告に従って曹操の真意を知り、揚州への軍兵派遣を遅らせ不意の召集に備えた。まもなく、荊州方面で関羽の攻撃により于禁が敗れたため、裴潜達は軽装の軍のみで出陣し、関羽追討に当たっていた徐晃軍への援軍に赴いている(「温恢伝」)。

曹操は、本営の摩陂に駐屯する裴潜の軍が整然としてるのを見て、これを賞賛した。

曹丕(文帝)が禅譲により魏王朝を成立させると、裴潜は中央に戻り散騎常侍となった。後に、魏郡・潁川郡の典農中郎将となった。この時、郡太守と同様の人材推挙の権限を典農中郎将にも認めるよう提言し、農政官僚の出世ルートを広げた。

荊州刺史に転任し、関内侯の爵位も得た。この時、州泰を従事として採り立てている。

曹叡(明帝)の時代にも中央に戻り、尚書となった。後に河南尹となり、太尉軍師・大司農といった高官に昇った。爵位も清陽亭侯までになり、二百戸の所領を得た。
244年に死去。葬儀は簡素にするよう遺言した。太常を追贈され、貞侯と諡された。子が後を継いだ。

彼の劉備評は劉備の器を言い当てているように思える。相応の出世を遂げたのも納得できる。


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トランプは三国志で言えば誰だろう? [三国志]

個人的には孔融のように思える。
減らず口。それでも、そこそこ支持を得る。
全面否定はできない人物。
さりとて大事は任せられない。

どうだろう?
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三国志時代の情報伝達 [三国志]

ネットの無い三国志の時代。
広大な中国で遠隔の情報が伝わることの困難。評判があまねく伝わることの珍しさは
想像以上かもしれない。

人材を集める。そもそも集めていることを知らせるのも大変だろう。
土地の有力者は重要人物であり、その人とコネを作るのもまた一苦労。

そう考えていくと許子将という人物の人物鑑定力が世間で広く信じられということは、
かなり評価されることなのだろう。そして、その人物に人物評価された曹操は、
名を広めるという意味でも、その後の展開に大きく寄与したことだろう。

辺境の地から出発し、地方で限定的に人気を得た劉備だが、人材集めに苦慮したのは、
権謀術数の問題も有るかもしれないが、情報力というもの、情報を流す方にも集める方にも
大きな力が無かったことが、天下を治められなかった原因の一つかもしれないと考える。
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劉備の人徳 [三国志]

人徳の人劉備。だが彼はその死の直前の息子への遺言で「父は徳が薄かった」と語っている。

実際彼の人徳はどのようなものだったのだろうか?

劉備人気が最初に認められたのは荊州入りしてからではないだろうか?
劉表に代わって彼が土地を支配して欲しいと望んだ民は多かったようだ。
それ故に曹操の荊州侵攻の際、劉備に付き従う人が多かったと言えよう。

だが、それまでの劉備人気はよくわからない。豫洲牧時代の彼はそれほど土地の支持を
受けたと思える記述が無い。

劉備の人徳は一般の民衆や地方では認められても知識階級や都会では認められなかった
のではないだろうか。
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賈逵・・・曹操に評価された能力の持ち主 [三国志]

賈逵の一族は名家であったが、幼少時に両親が死没したため、貧しい暮らしを余儀
なくされたという。しかし賈逵はそのような中で兵法などの勉学に励み、祖父からも
「大人になれば将軍に出世する」と評価されたという。

賈逵の働きが孫資によって世間に伝えられ(注に引く『孫資別伝』)たため、賈逵は
茂才となり、澠地県令となった。高幹が反乱を起こすと、張琰という人物がこれに
呼応しようとした。賈逵は一計を用いて張琰の兵力を騙し取り、澠地の反乱者を一掃し、
城壁を修理して張琰を破った。その後、祖父の喪により官を去った。

朝廷の実権を握る曹操の招きを受け、司空掾(属官)となった。さらに議郎となり司隷の
軍事を担った。馬超征伐のとき、賈逵は曹操から弘農太守の代理に任命され、曹操と
対面した。曹操は賈逵を気に入り「太守が皆賈逵のようであれば、心配ごとなどある筈が
あろうか」とまで言った。

軍務において優秀さを発揮したため諌議大夫へ昇進し、夏侯尚と共に軍事面での計略を
掌った。曹操が洛陽で死去するとその葬儀責任者を務め、長安から駆け付けて印璽の
ありかを尋ねた曹彰を厳しく退けて、棺を太子の曹丕がいる鄴に奉じた。

曹丕が魏王になると、賈逵は鄴県令となり、やがて魏郡太守に昇進した。曹丕が遠征した
際は、丞相主簿祭酒に任命され随行した。また厳しく軍律を履行し、沛国譙県についたとき
には豫州刺史を任された。賈逵は、豫州の治政が緩んでいたのを見て官吏の綱紀粛正に努め、
他の州治の手本となるほどの治績を挙げた。この功で関内侯に封じられた。

豫州は呉と国境を接していたため、軍備の整備と充実に励んだ。中でも特筆すべきが、
二百里にも及ぶ大運河を築き上げたことであり、この大運河は『賈侯渠』と呼ばれた。
呉との軍役にも何度か参加し、呂範を破るなど功績を挙げ、建威将軍・陽里亭侯となった。
また、呉軍の東西に伸びた防備ラインを打ち破るため、長江までの直通の通路を整備する
ことを主張した。曹丕(文帝)はこれを賞したという。

隣の揚州都督の曹休とは仲が悪く、曹丕が賈逵に節を与えようとした時、曹休は賈逵の性格に
問題があると言いそれを撤回させている。

228年に呉へ侵攻したとき、呉領深く進攻した曹休が窮地に陥った。賈逵はその援軍として赴き、
呉軍に大敗した曹休の窮地を救った。

個人的な嫌悪を忘れ政務を優先する人物。その能力と人柄を曹操そして曹丕もしっかりと評価
していたようだ。


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三国志非業の死を迎える参謀が多かった理由 [三国志]

三国志では可愛そうな最期を迎える参謀が多い。
田豊。荀彧。沮授。陸遜。

彼らが気の毒なのは、自分がこれはと思い仕えた主人が、実はそれほどの人物で
なかったり、考え方が変わってしまい自分の心と離れてしまい、寂しい晩年になって
いること。

劉備は私怨に近い形で戦に走り、大敗したが、そこで人間性を取り戻し、最後は
諸葛亮に後事を託した。ある意味美しい主従関係で終えることの出来た諸葛亮は、
その点に関しては幸福だったかもしれない。
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諸葛亮を世の中に出した劉備 [三国志]

三顧の礼をもって諸葛亮を出仕させた劉備。諸葛亮ファンからすると、劉備は諸葛亮を
表舞台に出した殊勲者と言えよう。

仙人のように世を避け賢者として一生を過ごしていたら・・・。

その方が諸葛亮にとっては幸福だったかもしれないという可能性が有る。

でも、三国志という歴史は存在しなかったかもしれない。色あせていたかもしれない。
その点をかけても劉備は物語に彩を与えた人物と言えそうだ。
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諸葛亮の北伐は国防目的だったのか? [三国志]

諸葛亮の北伐を巡る是非。
その意見の中で、諸葛亮は攻撃によって国を守ったとする見解が有る。

この考えは興味深い。劉備が益州をまだ得たばかりの頃、曹操が漢中を併呑した際に、
益州ではすぐにでも曹操が成都に攻め込んでくるとのデマが毎日流れ、毎日のように
首謀者を殺して混乱を鎮めたとある。

曹真が漢中侵攻を企てて迎えうったことが有ったが、このような軍事行動を繰り返されたら
蜀の国内は動揺したかもしれない。

それが全てではなくても、諸葛亮の北伐は、魏の侵略の牽制を果たしていたかもしれない。
結果として。
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いい加減だと思う三国志評論家 [三国志]

三国志に関する評論は数多くあるが、半分以上は怪しいしろものである。

正史と演義の混同が最も多い。その次に多いのは・・・。
信憑性の低い異聞を史実であるかのように書く人。

例えば、井波律子氏。
馬超が劉備配下になった後、厚遇に頭に乗り、劉備を「玄徳殿」呼ばわり(非礼な態度)
し、それを聞いた関羽と張飛が怒り馬超を懲らしめようとする話。
この話を馬超らしい傲慢ぶりと書いているがとんでもない誤解。

何しろ、馬超が劉備配下になった後、関羽と張飛が顔を合わせる機会は皆無で、
この話は虚構。歴史家裴松之は、この異聞を伝えた人物を「歴史を弄ぶ罪人」とまで
こき下ろしている。

井波氏は単純に自分が気に入った話を勝手に史実であるかのように利用したのではないか。
個人的には受け入れがたい態度である。

井波氏だけではない。三国志評論のかなり多くはこんな具合にいい加減である。
代表格としては、加来耕三氏の名を挙げたい(笑)。
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司馬懿・・・面白みの無い”北伐の”勝利者 [三国志]

228年、孟達が蜀漢の諸葛亮と内応して魏に叛いた。司馬懿が赴任していた宛から孟達の任地で
ある上庸までは、通常の行軍で1ヶ月はかかる道程であった。司馬懿は丁寧な書簡を送って
孟達を迷わせた上で、昼夜兼行の進軍を強行し、わずか8日で上庸までたどり着いた。
城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と離反された。司馬懿はこれを破り、斬首した。
この電光石火の対処に諸葛亮ら蜀漢の中枢は動揺した。その後の街亭の戦いでは『演義』と
違い、史実では司馬懿は指揮に関与してはいない。

231年、蜀漢に対する戦線の総司令であった曹真が死んだ。司馬懿はその後任として張郃、郭淮ら
を従え、諸葛亮と対戦する。司馬懿は局地的に諸葛亮に敗れたが、蜀漢軍は食糧不足により撤退した。この際、司馬懿は張郃に諸葛亮を追撃させたが、高所に伏兵を置いた蜀軍に弓矢を乱射され、張郃は射殺された。『晋書』宣帝紀によれば、司馬懿は諸葛亮を追撃して大いに破った。
三国志』には、司馬懿が諸葛亮を破ったという記述はない。

234年、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた(五丈原の戦い)。この戦いで司馬懿は郭淮、辛毗らと共に防衛に徹した。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣するが病死し、蜀漢軍は撤退した。蜀漢軍が退却したのち、司馬懿はその陣跡を見、「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。

司馬懿は”北伐”の勝利者かもしれない。だが、華々しく勝った場面は無い。
演義で諸葛亮には遅れを取る指揮者として描かれているのもその辺の事情を考慮されている
ように思える。


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同じような夢でも・・・。 [三国志]

ある日自らの頭に角が生えるという夢に悩み、趙直という人物に相談した。趙直は誤魔化して「麒麟は角を持っているが用いることはありません。これは、戦わずして賊軍が自壊する象徴であります」と言ったが、魏延が退座すると近くの者に「角という字は刀の下に用いると書く。頭の上に刀が用いられるのだから、その不吉さは大変なものだ(つまり魏延の首が落とされるという暗示)」と、本当の占いの結果を漏らした。

蒋琬が県長だった頃に見た夢である「一つの牛の頭が門前に転がり、血をたらたらと流す夢」について、血は「宰相」を示し、牛の角と鼻は「公」の象徴であると読み解き、宰相となり公にまで昇進すると予言した。

同じような夢だが、その意味することの大きく違うことよ。

同じ漢字でも他の字との組み合わせで意味がまるで異なるのと同じような話だろうか・
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徐庶の母 [三国志]

印象に残る女性。
三国志、三国志演義では感心させられる言動で記憶に残る”母親”が多い。
徐庶の母は正史と演義では事情が異なる。まずは正史。

劉備が曹操に敗北した折、徐庶の母が曹操軍の捕虜になると、動揺した徐庶は劉備に別れを
告げて曹操の下に赴いた。その後徐庶の母が自殺したなどの記述は無い。演義は?

程昱の策による徐庶の母親の筆跡を真似た手紙を受け取り、止むなく曹操に下ることになるが、
去り際に劉備に諸葛亮を推薦し劉備の下を去っている。この事を知った母親は自殺し、徐庶は
この事で曹操のために献策はしないという誓いを立てた。

演義は何故このような創作をしたのだろう。私なりに考えた。

1.惜しい人材徐庶が劉備陣営を離れる物語的演出の追加
2.劉備から離れた後大成しなかった徐庶の原因のエピソード創作
3.曹操陣営の人物の腹黒さ
4.潔い自殺による徐庶の母の潔癖で聡明な人物ぶりを創作

といったところか。どうにも4は落ち着かない気分だ。あまりにも徐庶が気の毒過ぎる。
演義は徐庶を悲劇の参謀と描きたかったのだろうか。
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董允は黄晧を目の敵にした。 [三国志]

三国志演義終盤。いよいよ蜀の滅亡が近づく場面。
姜維は、劉禅に宦官である黄晧が国に害をなす存在であると言い、誅殺するように
進言する。しかし、劉禅は一笑にふして「ただの一宦官」と言い、「董允も生前彼を目の
敵にした」と加える。

読者はどう思うだろう?この逸話は正史にもある。董允はしっかりと人物を見抜き、
存命中決して黄晧に政治に参画させなかった。とある。演義で董允の活躍する場面は少ない。
この場面でさりげなく董允という人物の良さを表している。

そして、一方でそのような硬骨の人がいよいよ蜀からはいなくなり、亡国に向かっていく
場面であることを匂わせる。三国志演義、細かく読み直すとしみじみ考えさせられる場面が
まだまだありそうだ。
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蜀は今の日本の野党のような政権だったのだろうか? [三国志]

今の自民党を魏とすると、蜀は共産党的な立ち位置のように思える。

党としては成立するが、政権はまず取れない。自民に飲み込まれるつもりはない。

このたとえ強引だろうか?

劉備が劉氏だから漢を継ぐものという存在意義があえて言えば、共産党よりも
対抗できる力を備えていたと言えるかもしれない。

ただ、中国全土の支持を得ようとなると、なかなか魏を崩せそうにない点は、今の日本の
野党と被ってみえる。
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閻宇・・・亡国の将にありがちな人物 [三国志]

閻 宇(えん う、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀漢の武将。字は文平。荊州南郡の人。
馬忠・張表の後任として蜀南部の統治を行ない、長年に亘って業績をあげ、職務に熱心で
あったとされるが、馬忠の風格・功績には及ばなかったとある。その後、右大将軍に遷った。
257年頃、呉の朱績が魏を牽制するよう蜀に求めてきた。このため、閻宇が右大将軍の地位のまま
巴東に都督として派遣され、5千の兵で白帝城を守備し、太守の羅憲を副将とした。

その一方で閻宇は黄皓と結託し、北伐中の姜維と自分を交代させようと画策した。黄皓以外にも
諸葛瞻・董厥らは、勝機無き北伐の連続で国内を疲弊させたということを理由に、姜維を
召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うよう劉禅に上奏すべきと考えていた。
蜀の長老の話に拠れば、諸葛瞻は実際に姜維と閻宇を交代させるよう上奏したとされる。

263年、魏が侵攻してくると閻宇は召還を受け、羅憲に2千の軍勢を委ねた上で西へ引き返した。
その後の消息は不明である。

そこそこの働きしか出来ないくせに、邪悪な権力者と手を結び重要なポストに就いた。まさに
亡国を思わせる人物。蜀滅亡の時点の記録が無いのは、敵国である魏から取るに足らない
人物と思われ、逃亡したところでまるで問題とされなかったからではないか。

蜀末期。腐っていたのは、このような人物と曲がりなりにも蜀の重臣であった諸葛瞻が彼を
軍のトップに据えようと動いたという記録。

蜀の終わりは悲しくて・・・。
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三国志の時代奇襲は成功しやすかった? [三国志]

考えてみれば、戦争というものは、堂々と宣戦布告をして敵に防備の時間を与えるよりも、
油断をついて奇襲した方が成功する確率が高そうだと考えるのは自然ではないか?

問題であるのは、自分が奇襲だと思っても、相手が予期していて奇襲にならない場合。

三国志演義で奇襲が失敗するのはそのパターンが多い。

油断している体を装い、敵に奇襲をかけたいと思わせ、罠を仕掛け大勝利を収める。
戦とは騙し合い。兵法にある程度通じた人間は、その辺の可能性を考えて、猛る武官の
奇襲を却下したであろうと予想する。

そう考えると、”本当の奇襲”を実行するのはなかなか難しいと実感する。
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諸葛喬・・・惜しまれる諸葛亮の養子の早逝 [三国志]

字は初め、仲慎、後に叔父の諸葛亮の養子となった時に伯松と改めた。諸葛瑾の次男として呉で生まれたが、父の命で当時子供のいなかった叔父・諸葛亮の養子となり蜀に仕える。
伯松の”伯”は長男がつける字で、諸葛亮の長男として期待されたのを受けての改名だろうか?
将来を期待されており、後に劉禅の姉を娶ったと言われ、蜀漢の駙馬都尉に任じられた。

その後、諸葛亮に実子の諸葛瞻が誕生した後も変わらず期待されていた。若い頃は霍峻の子の
霍弋と共に、見聞を広めるため旅をしたという。だが、その才能を発揮することは無く、
漢中にて病死した。享年25。

長兄の諸葛恪よりは才能が劣っていたが、性格は父譲りで遥かに上であると評された。

何とも惜しい気がする。諸葛亮の落胆ぶりを思わずにいられない。

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三国志絡みで関心しない書籍 [三国志]

三国志を冠した本は多い。劉備の人心掌握を学べ、諸葛亮の戦略を学べ、曹操の魅力等々。

しかし・・・。

その多くは、他人の作品の二番煎じであったり、よく調べもせず間違った解釈や
脳内ででっち上げた異説をもっともらしく取り上げた呆れた内容である。

ありがちなのは、三国志の人物と信長・秀吉・家康が酷似しているという無茶な
結びつけ。

軍師の能力比較。世説新語を実話と勘違いした紹介。曹操を逃がしてやった関羽の逸話を
実話紹介。

これだけ三国志関連の本が出るとさすがにこのような馬鹿げた本は売れないだろう。
今朝の日経新聞の広告、加来耕三氏の新作は読むに値しないものだろうと予告して
おきたい(笑)。
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徐晃はなぜ孟達に殺されたのか? [三国志]

字は公明。郡の役人を務めていた後、車騎将軍の楊奉(李傕の部下)に仕え、賊の討伐で功を
挙げて騎都尉に任ぜられた。

李傕と郭汜が対立し長安が混乱すると、徐晃は楊奉に献帝を連れて洛陽に戻ることを進言し、楊奉はこの考えに従い献帝を連れて洛陽に戻った。献帝が安邑まで来たところで、徐晃は都亭侯に封じられた。洛陽まで辿り着いたところで、今度は韓暹と董承が対立を始めた。徐晃は楊奉に曹操に帰服するように進言し、楊奉も一時はその進言を受け入れる気になっていたが、心変わりし曹操と対立した。曹操が梁の楊奉を討伐すると、徐晃は曹操に帰順することになった。

徐晃は武功を挙げても奢る素振りは見せず、部下には親身に接したために人望が厚かったと
伝えられる。彼は常に「昔の人はよく明君に出会えぬことを嘆いたものだが、わしは幸運にも
その明君にお会いすることができた。だから、功績を挙げてこの幸運に答えなければならぬ。
個人の功名など何程のこともない」と言い、最後まで徒党を組むことはしなかった。

用兵では間者を使った情報収集を重視し、常に敗戦時の対策を念頭に置いて戦いを進めるなど
堅実であったが、その一方で好機と見るや、配下に食事の暇も与えないほどの猛烈な追撃を
行うこともあった。

彼は人物も立派な名将だった。しかしながら三国志演義では最期は、正史三国志で病死した翌年、かつて蜀臣だった孟達が再び帰参する動きを見せたために、司馬懿がその討伐に当たった時、
偶々遭遇して同行したが、緒戦で孟達が放った矢が額を貫き、大量出血で絶命するという設定になっている。

徐晃はなぜ孟達に殺された扱いになっているのか?恐らく関羽を破り関羽が死ぬきっかけを
作ったこと、彼が死んだ時期をうまく絡ませて、「関羽を死なせた憎いやつ」を諸葛亮が
誘った孟達に殺させることにより、その死に方を惨めな扱いにして、更に諸葛亮がうまく
機能させることができなかった孟達も、名将徐晃を打ち取る成果をあげたという演出を
狙ったのではないか。徐晃の人物を思うと、なんとも後味の悪い設定に思える。


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