So-net無料ブログ作成

天下三分の計に対する疑問 [三国志]

諸葛亮の大いなる謀りごと。
天下三分の計。
それが三国鼎立を目的としたものであれば、成功と言えるが・・・。

天下統一を目的としたものであるとすると大きく二つの疑問がある。

一つは時間の問題、もう一つはそもそもの計略の前提の蓋然性。

一つ目の時間的問題。それは彼が三顧の礼で迎えられたときの劉備の年齢がすでに四十代
後半であること。諸葛亮は何年で天下を統一するつもりだったのか。
この時点での最大勢力者曹操が旗揚げから約20年経過して、その時点の勢力分布が
出来上がっており、それを20年以内で覆すのはなかなかの至難の業。

二つ目は、荊州と益州を領有し孫権と組んで曹操に当たり、二方面から魏を攻略するという
前提。
まず荊州がそんなに簡単に劉備のものになる可能性が有ったのか?
地元の有力者蔡瑁はしっかりと権威をふるっており、にわかに劉備のものに出来たとは
思えない。跡目争いも長男が優勢で劉備に地元人気が有っても、良くてせいぜい
内部分裂という事態がせきの山で平和裏に劉備が荊州の主になると思えない。
そして、荊州が自由競争状態になると、孫権も荊州に虎視眈々であり、荊州を領有して
孫権との同盟を両立させるのは困難。事実その通りだった。

天下三分の計は、その状況にあってはベストソリューションだったかもしれないが、
穴の無い計画ではなかったというのが私なりの結論。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志時代の長期政権 [三国志]

三国志で長期政権と言うと良い印象が無い。
孫権と劉禅。
腐敗という言葉が似合いそうだ。
孫権は老害だった。晩年の孫権は功臣陸遜のことまで、佞臣にたぶらかされ、陸遜を問責し、
憤死させている。後継者争いで政治を混乱させている。重税で民衆を苦しませている。
劉禅も宦官を寵愛したり、有能とは言い難い臣下に重責を与えている。

今の中国で長期政権が成り立つとどうなるのだろう?
嫌なものしか感じられない。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

GDPと兵力で考える三国志 [三国志]

三国志という時代。
一般に魏と蜀の国力差は絶望的なまでに開きがあると言われる。
それでも、形の上では蜀が北伐という攻勢を取れたのは?

人口では魏が440万人。蜀が94万人。
一人当たりGDPで蜀が魏の4.5倍無いと蜀は魏の国力を超えられない計算になる。
蜀は滅亡時、兵士数が約10万。9.4人に一人が兵士という計算。
魏に当てはめると、魏は44万人兵力を持てることになる。

たとえ魏が領土広く、蜀呉の二国を相手にしないといけない状況にあっても、
政治の機能が余程蜀より劣らなければ、その差は埋まり難い。

蜀に勝つチャンスは、国力や兵力ではなく、魏が政情不安だったり、漢室再興を望む
魏領土内の勢力が蜂起することのように思えるが、三国志時代は、魏も圧政に不満を
持たれながらも一応の支持は得ており、何よりもすでに「漢室」を望む声は無かった。

となると、諸葛亮の政治手腕以上に、奇跡的な技術革新で、国力が驚異的に伸びたり、
兵器の威力が恐ろしい効果を示す発明でもなければ、逆転が難しいと言えないか。

益々、出師の表の諸葛亮の「厳しい現実」状況説明が鮮明になる。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

今の中国と三国志時代の魏 [三国志]

両者に共通しているのは、圧倒的な国力を持っている点。
ただし、魏は今の習近平氏のような強力な独裁ではない。
あえて言えば、曹丕時代を除いては。

人口多く、従ってGDPは優位な立場。人が多いので軍事力強く、強さにモノを言わせて
無理をきかせる政治が行える。もっとも外交ということを考えると、服従する国あり、
逆らう国有り、その辺の事情は似ていると言えそうだ。

中国には米国のような相応の敵が存在するが、魏は蜀と呉が同盟してかかってきても
多寡が知れている。

両者に共通して言えるとすれば、大国としての大人の振る舞いが出来ていない点。
民衆は喜んで統治に従っているのではなく、その巨大な力ゆえ従っている点は
似ていると思う。

多少無理な見方、まとめ方であることは認める(笑)。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

劉曄・・・演義では触れられない末路 [三国志]

魏の重臣。家系は劉氏。字は子揚。淮南郡成徳県(安徽省寿春県)の人。後漢の光武帝の庶子である阜陵質王・劉延の子孫に当たり、王族系の名門の出身であった。成徳侯・劉普の次子。劉渙の同母弟。劉備よりも遥かに由緒正しい劉氏の血統。

7歳の時に母の脩が病で亡くなった。臨終前の母は「あなたの父の近侍の一人は悪質な奸臣だから、あなたが成人したら彼を取り除く(=殺害する)ように」という遺言を残していた。劉曄は13歳になった時、生母の遺言に従い、その奸臣を誅殺しようと同母兄の劉渙に相談したが、劉渙は受け容れなかった。そのため劉曄は一人で奸臣を殺害した。これを知った劉渙は弟を非難したが、父の劉普はこれを抑え、劉曄の気持ちを察し、彼を咎めなかったという。このことによって、彼は許劭(許子将)から冷静沈着で豪胆な人物だと評された。

曹操が寿春に出陣し揚州の人材を募った際に蒋済や胡質と共に仕え、参謀として数々の献策を
おこなう。

曹操が張魯を討伐した時、地形は険しく、食料が欠乏したので撤退しようとしたが、劉曄は戦い続ければ勝算があり、今撤退すれば追撃をうけ損害を被ると見て、曹操に戦いを続けるよう進言した。曹操は劉曄の進言に従い戦いを続け、張魯は敗走し漢中は平定された(陽平関の戦い)。漢中平定後、劉曄は司馬懿とともに、この勢いに乗じて劉備が支配して間もない益州に侵攻するよう曹操に進言したが、この意見は却下されている。

曹丕の時代に入ると関内侯に封じられ侍中に昇進した。 蜀将の孟達が降伏してきた際、曹丕はこれを厚遇したが、劉曄は孟達の忠義心の薄さを指摘してこれを諌めている。 曹丕は聞き入れなかったが、後に劉曄の予想通り孟達は裏切った。

関羽の敗死後、曹丕は群臣に劉備が呉に報復をするかどうか下問した事があった。 世論は「蜀は小国で、名将と言えば関羽のみ。その関羽と多くの兵が失われた今、蜀に戦う力は無い」として、これを否定していた。しかし劉曄のみは「蜀が小国であるからこそ、劉備は国内に武勇を示さねばならず、親子の同然の関係である関羽を殺されて復讐しないのでは、その誓いを全う出来ない」と述べ、必ず報復をおこなうと見ていた。

果たして劉備は呉に攻め込み、呉は魏に対して臣従を誓う使者を派遣した。 群臣はこれを祝賀したが、劉曄は「呉は外圧を受けて切羽詰って使者を派遣してきただけで、とても信用できるものではありません。呉の困窮に乗じてこれを討つべきであり、この機を逃せば数代に渡る患いを残す事になります」と進言したが、劉曄の言葉通り呉は劉備を退けた後、魏に叛いた。

曹叡の代にも謀臣として重用された。曹叡が即位して間もない頃、劉曄のみが謁見を許され、連日曹叡に召し出され夜更けまで政論を語り合ったという。劉曄は初めて曹叡に謁見した際、他の廷臣にその人となりを尋ねられた時、「始皇帝や漢の武帝の風を持つが、この二人には僅かに及ばない」と述べている。

傅玄の『傅子』によると、曹叡が蜀の討伐を計画したとき、劉曄は参内してそれに賛意を示した。ところが退出してからは群臣に対して討伐に反対することを表明した。これを知った曹叡は疑問に思い、劉曄を召し出しその理由を尋ねたが、劉曄は何も答えなかった。後に一人で拝謁した劉曄は曹叡に「他国討伐は重大なる計画でございます。計画が実行されるまではその秘密を簡単に漏らしてはなりませぬ」と説き、国家機密の重要性を曹叡に諭している。

以降も東亭侯に封じられ太中大夫、大鴻臚を歴任した。彼の没年は不明。諡は景侯。

演義では死ぬ場面が描かれていない。そして、上記のエピソードをもって彼の出番は終了している。ところが・・・。

『傅子』によると、劉曄はその晩年曹叡に疎まれ、孤独感に陥ったあまり、発狂して死んだという。彼は上記の逸話に見られるように、自分の心情を固く秘めておく人であった。劉曄を嫌っていたある重臣が劉曄を讒言して曹叡に「劉曄は陛下の意をうかがいそれに迎合する不忠者です。試しに彼に対して陛下のお考えと反対のお言葉を仰ってくださいませ。もし劉曄が反対するようでしたら、陛下の意にかなっているといえるでしょう。もし賛成するならば、劉曄の考えは明らかになるというものです」と進言した。曹叡がその重臣の進言通りに試してみると、果たして劉曄はその重臣の話した通りに接したので、それ以降、曹叡は劉曄を信用しなくなったという。

演義は劉曄を優れた人物として評価を落とさず退場させたかったのだろうか?
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

劉備を現代中国で例えると [三国志]

習近平と対抗する政治家ではないか。

圧倒的権力、いや、独裁。

絶望的なつよさの人物に対抗する。
劉備とはそのような存在に思えた。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

老黄忠は今の日本人の理想像 [三国志]

三国志の中で活躍した老将と言えば、真っ先に挙がるのは黄忠だろう。

もっとも、正史の中で黄忠の高齢について触れられているんは、
関羽が将軍位を授けられた際に
「自分ともあろう者が、とうとう老人と同列してしまった」
という不満の声を発した記事だけなのだが(笑)。

蜀は五虎将軍という極めて破格の将軍がそろった”黄金時代”のあと、猛将の存在が
なりを潜めた。若返りが上手くいかなかったのだろうか。

少ない人口の中、兵士の数がやたらと多く、少子高齢化社会だったのかもしれない。

私達世代は高齢になったら、一線を退かず、老黄忠のようにバリバリ働かないと
いけなくなっていると考える。

決して今の高齢者の方々に”老黄忠”を求めているわけではありません。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

某国のトップと袁術 [三国志]

三国志の中には一般人以上に人格の劣る人物がいる。袁術はその中の一人。

名門であること”だけ”を鼻にかけ、その実、一族の袁紹に人望が集まることを妬み、
袁紹を誹謗中傷し足を引っ張ろうとする。

彼の一生は、出自”だけ”を取りえにいたずらに地位を得る。

そして、その彼の政治ぶりはでたらめで、人民を苦しめるだけで、土地を
疲弊させるだけのもだった。

土地がスラム化するとその土地を捨て去り、別の土地に移り、分不相応にも
統治者となる。

政治が駄目なくせに、やたらと軍事力を拡大する。
迷惑このうえない話だ。民が困窮しているのに自分は贅沢三昧。
彼が最期苦しんで死んだのは自業自得だ。

某国のトップを見る度に袁術を思い出す。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

現代の中国人と諸葛亮 [三国志]

三国志で魅力的な人物の一人である諸葛亮。

その諸葛亮と現代の中国人を照らし合わせると・・・。

何とも不釣り合いを感じる。

三顧の礼が、意地悪な諸葛亮が訪問者に嫌がらせをした行為のように思え、
南蛮討伐が、少数民族いじめのように思えてくる。


偏見が入り混じっていることは認めます(笑)。
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「読む価値の低い」三国志の批評 [三国志]

1.実際に三国志をろくに読んでいないことがまるわかり
2.劉禅を必要以上に無能扱いする。
3.諸葛亮を過剰に美化する
4.反対に知ったかぶりで諸葛亮の短所を並べて「知っている」アピールをする
5.他人の批評の盗作
6.5でまずいと思ったのか、自分で考えたと思われる内容が史実にも演義にも
  忠実ではない、愚かな虚構

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

姜維の失敗 [三国志]

1.独断と映る決断に基づく軍事行動
2.国力を考慮していない
3.目的が不明確
4.組織不和
5.現状分析

負けるべくして負けた感が強い。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

諸葛亮の北伐に勝機はあったのか? [三国志]

そもそも、諸葛亮の北伐の目的の着陸地点はどこだったのか?
長安だろうか?洛陽だろうか?魏全てだろうか?

長安が奪えれば御の字に思える。
それも維持することを前提で考えての話だが。

人口で比較すると5対1くらいの劣勢。
しかも、守るには良い地形だが、それ故に行軍が難しい蜀の事情。

致命的なのは、魏の政情が不安だったらそこに付け込めたのだろうが、
そのような状況ではなかった。

色々考えると、攻撃によって魏の侵略を防ぐという北伐=国防という考えも
強ち外れていないのかと思えてくる。

しっかり守りを固めているだけでは、魏は蜀を舐めて侵略の軍をよこす機会が
増えたかもしれない。蜀が攻めることで魏の軍事費を浪費させ、蜀を滅ぼす実力に
拡大することを防ぐ。作戦としては決して間違いではないと思うのだが・・・。
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

馬良の実力 [三国志]

白眉ということわざまで残した有能な人物。
しかしながら、この人物の能力は三国志演義を読んだだけでは伝わってこない。

関羽の補佐をしながら、目立った献策をすることなく、荊州を守れていない。
劉備の参謀として陸遜と闘うも、やはり、勝利に貢献するような策を授けていない。
辛うじて、劉備の作戦に疑問を感じ、孔明にその採否を問うという一幕があるが・・・。
結局、劉備の役に立っていないので・・・。

正史を読んでも、活躍として描かれるのは、孫権に外交する役目をつかさどり、
孫権と接して、評価されたことくらい。

演義に見えず、正史のみの記述で興味深いのは、孔明を「尊兄」と呼んでいて、
義兄弟の契りを結んでいる可能性がうかがえる点。恐らくは、弟馬謖同様、孔明の
期待が大きい人物だったのかもしれない。

先に書いた陸遜との闘いでは、異民族を味方につけて、蜀軍の兵力増強という成果を挙げている。

孔明がそうであるように”応変の略”は長ずるところではなかったかもしれないが、
人を説得する能力に長じていた人物なのかもしれない。周囲の期待も大きかったのだろう。
それだけに、少し物足りなく感じる正史及び演義の彼の活躍を読むにつけ
「もっと活躍していれば・・・」と思わせる。

龐統といい、馬良といい、結局生前、もっと活躍を期待していても良さそうな人物が
早々と亡くなっているので、孔明の負担が重くなったと思わざるをえない。
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志演義は人を試すのが好きな人が多い? [三国志]

諸葛亮の三顧の礼などその最たる例ではないだろうか。

自分なりの”テスト”で人物のふるいをかけて、信用するに足る人物かどうかを見る。
その辺の駆け引きを読むのも面白さの一つだと思う。
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

劉禅の暗愚ぶりが本当に蜀滅亡の原因か? [三国志]

私はそうは思わない。
劉禅がやった愚行と言えば、宦官の黄晧を信任して政治を腐敗させたこと、
そして、まだ戦える状態にありながらあっさり降服したことくらいだと考える。

蜀と魏の国力差は明らかだった。
大体、中国の歴史で権力者が原因で国が滅びるのは、
無茶な軍事行動が自らの首を絞めることが挙げられる。
あとは無意味な建築工事で国の財政を苦しくさせることか。

劉禅の治世は褒められたものではないが、そこまで酷いことは
していないように思える、
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志に見る成功者の条件 [三国志]

1.冷静である。
2.己を知っている。
3.感情を表に表さない。
4.人を許す度量が有る。
5.穏やかである。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

胆力 [三国志]

三国志で力量のある人物として認められる尺度の一つが、胆力。

困難な状況や脅しに屈せず堂々と振る舞う様。
そこに人物への敬愛の情が生まれる。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

才能は劣れども、人柄は優る。 [三国志]

弟諸葛亮との比較論における諸葛瑾に対する評価。

出来のいい弟を持つ優しい兄という姿が思い偲ばれる。

だが、意地悪い見方をすると、諸葛亮の人柄はそれほどまではなかったとも
読める。

この見方は穿ち過ぎだろう。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

費禕と来敏の逸話 [三国志]

244年の魏軍による漢中侵攻の際、出陣直前に来敏が費禕を訪ねてきて
「しばらく君と会えなくなるから、日頃の囲碁の決着をつけておこう」と申し出た。
費禕は勝負を受け、二人で囲碁を指し始めたが、出陣に際して周囲が慌しくなってゆく様子に、
来敏の方が耐えられなくなり「君を試すつもりで勝負を申し出たが、この度胸の据わり具合
ならば、いざ前線にあっても何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した。
果たして費禕が前線に赴き、既定の方針に従って指揮を執ったところ、見事に魏軍を
撃破し退けたという。

この話大きく2つに評価が分かれる。

費禕の胆力の大きさを評価する意見。
反対に危機の際に気のゆるみを見せ、最期に命を刺客によって奪われた費禕の
慎重さの無さと批判する意見。

どちらを選ぶかはその人次第という逸話だろうか。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

演義と正史で馬超が死ぬタイミングが違う理由 [三国志]

馬超が演義で死ぬのは・・・。
実は「死んだ」と語られる。
それは第一次北伐の出兵の際。病死だったようだ。いつ死んだのか言及されない。

それでは正史では?というと、劉備宛に遺書を書いている。劉備が死ぬ一年前の
222年に死去。

馬超の正史での劉備傘下の後の活躍はほとんど見られない。精細を欠いてしまっている。

演義はそれが忍びなかったのか。劉備の荊州侵攻の際も、魏の最前線である漢中は
馬超がいるので安心と書かれ、諸葛亮の南征も、馬超が魏に備えていることに
なっている。

ところで、本来上記の漢中の守備の役割を史実で果たしているのは魏延だ。
演義は案外魏延の功績をカットするために、馬超に振り替えたのかもしれない。

この憶測が当たっているとすると、演義は随分と魏延を毛嫌いしているということになるが、
案外当たっているかも(笑)。

nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

諸葛亮は北伐でどう戦おうとしたのか? [三国志]

蜀の人口は魏の5分の1程度。
もちろん、国力と人口は必ずしも比例するものではない。
とは言え、人口差を埋めて戦争で勝つには、無理気味に徴兵して、”兵士率”を
高めたり、兵器や軍略を相当高めるくらいの方策しか思い浮かばない。

蜀は占領して10数年の国であり、無理な軍役や税負担は国民の支持を失い政権の瓦解に
つながる。諸葛亮は政治に明るい人物であり、そのような行為には走らない。

兵器の差で大軍に勝つ。文明の程度で言えば、中原(文化圏)を抑えた魏に対して
蜀は劣位。となると、軍略で例えば、狭い場所に魏の大軍を誘い出して、火攻めで
魏の大軍の全滅を狙うといった戦法が思い浮かんだ。

しかし、それとて仮に有効であり、魏軍に大打撃を与えても、諸葛亮に対する遺族の
恨みを大いに買うことは想像に難くない。仮に魏軍を打ち払い領土を得ても
人心をつかめないだろう。

諸葛亮は北伐をどう戦おうとしたのだろうか?第一次北伐の陽動作戦のように、
兵力をお互いに損ぜず、少しずつ領土を得ながら、近隣の魏の領土から自ずと
帰順するような構想でもあったのだろうか。謎は謎のままである。
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

男子三日会わずして刮目して待つべし [三国志]

三国志に出てくる言葉の中で好きな言葉のベスト3に入る。

男子たるもの、短期間でも目を見張るような成長を遂げる存在であるよう
自分をブラッシュアップしたいものだ。

この言葉の”発信人”呂蒙はその良い手本と言えそうだ。
nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

袁術の政策に近い国 [三国志]

善政とはほど遠く、民から搾取し苛斂誅求という言葉を地で行くような政治、
そして、国力を度外視して兵力を増強した軍事国家ぶり。
自らの生活だけ奢侈で民を餓えさせた男袁術。

某北の国の怪しいトップを見ると袁術を彷彿させられる。
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

今の日米関係は三国志で言えば・・・。 [三国志]

荊州の領土問題でもめつつも、とりあえず同盟関係にあった頃の劉備と孫権の関係のように
思える。

<孫権勢力と今のアメリカの共通点>
・天下よりも自勢力第一主義
・いうことを聞かないのならば実力行使

<劉備勢力と今の日本>
・立場的に同盟を破棄されると自分の方が不利

戦争にはならないでほしい。くれぐれも。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

劉禅が叩かれる理由 [三国志]

三国志演義のイメージで叩かれやすい劉禅。

正史を読む限りでは「糸のように周囲の補佐する人物によって、よくもなり悪くもなる」
と評され、そこまで酷い人物ではないと感じる。

彼の無能さを強調されている理由は以下の2つの事績ゆえではないだろうか。

1.本来、まだ魏軍に抵抗する余力がありながらあっさり降服して、父劉備や諸葛亮の
  事業をあっさり放棄したこと。
2.蜀が懐かしいかと問われた際に、「ここ(洛陽)が楽しいので、蜀を思い出しません」
  と無感動に答えたこと。

1は、激しく抵抗すれば蜀の兵士、民衆の犠牲がさらにひどくなった可能性が有り、けっして
責められることではない。
やはり、2の「バカ者」と言われる要素の強い発言が大きく影響しているように思える。

そして、国も会社も滅ぼしてしまえば、批判の対象になるのは宿命なのだろう。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

張松が曹操を愚弄する場面 [三国志]

三国志演義で劉備贔屓、蜀贔屓の読書はさぞかし溜飲を下げる場面だろう。
曹操がコテンパンにおちょくられる。
赤壁で負けたとはいえ、依然絶大な勢力の曹操に対して歯に衣着せぬ発言をする張松。

もっとも、このエピソードが無ければ、売国奴としての誹りは免れない行為をしている
張松。もっと惨い扱いをされたかもしれない。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

万骨を枯らす愚将 [三国志]

まともな部隊も指揮官が駄目であれば全滅する。

守るべき時に攻めれば、自ら死地におもむくようなものだ。
功をあせり、彼我の実力をわきまえず戦う将の率いる軍には未来が無い。

三国志で言えば袁術、孫晧辺りがその代表例だと私は考える。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

裴 潜・・・劉備を”正確に”(?)評価 [三国志]

中国後漢末期から三国時代の政治家。字は文行。司隷河東郡聞喜県の人。

名家の出であるが、母の身分が低く、また自身も若い頃に礼を軽んじる行動をとったため、
父には疎んじられていたという(『魏略』)。

戦乱を避け、当時安定していた荊州に身を寄せた。同じく北方から避難してきた王粲・
司馬芝と親しくし、客将である劉備とも交流した。自身も劉表に招かれたが、裴潜は
劉表がその器量と不釣合いの野望を持っており、その覇業が大成しないことを見抜い
たため、さらに長沙へ下っていった。

曹操が荊州を平定すると、曹操に見出され参丞相軍事に採り立てられた。いくつかの
県令職を務めた後、中央に戻り倉曹属となった。曹操から、以前交流のあった劉備の
人物像を質問されたため、中央においては乱を平定するまでの才能は持たないが、地方に
おいて一勢力を構えるだけの器量は持っている、という旨の回答をした。

その後は再び地方に赴き、沛国の相を経て兗州刺史となった。

219年、孫権が合肥に侵攻したとして、豫州刺史の呂貢と共に揚州へ援軍に赴くよう曹操に
指示されたが、温恢の忠告に従って曹操の真意を知り、揚州への軍兵派遣を遅らせ不意の召集に備えた。まもなく、荊州方面で関羽の攻撃により于禁が敗れたため、裴潜達は軽装の軍のみで出陣し、関羽追討に当たっていた徐晃軍への援軍に赴いている(「温恢伝」)。

曹操は、本営の摩陂に駐屯する裴潜の軍が整然としてるのを見て、これを賞賛した。

曹丕(文帝)が禅譲により魏王朝を成立させると、裴潜は中央に戻り散騎常侍となった。後に、魏郡・潁川郡の典農中郎将となった。この時、郡太守と同様の人材推挙の権限を典農中郎将にも認めるよう提言し、農政官僚の出世ルートを広げた。

荊州刺史に転任し、関内侯の爵位も得た。この時、州泰を従事として採り立てている。

曹叡(明帝)の時代にも中央に戻り、尚書となった。後に河南尹となり、太尉軍師・大司農といった高官に昇った。爵位も清陽亭侯までになり、二百戸の所領を得た。
244年に死去。葬儀は簡素にするよう遺言した。太常を追贈され、貞侯と諡された。子が後を継いだ。

彼の劉備評は劉備の器を言い当てているように思える。相応の出世を遂げたのも納得できる。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

トランプは三国志で言えば誰だろう? [三国志]

個人的には孔融のように思える。
減らず口。それでも、そこそこ支持を得る。
全面否定はできない人物。
さりとて大事は任せられない。

どうだろう?
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志時代の情報伝達 [三国志]

ネットの無い三国志の時代。
広大な中国で遠隔の情報が伝わることの困難。評判があまねく伝わることの珍しさは
想像以上かもしれない。

人材を集める。そもそも集めていることを知らせるのも大変だろう。
土地の有力者は重要人物であり、その人とコネを作るのもまた一苦労。

そう考えていくと許子将という人物の人物鑑定力が世間で広く信じられということは、
かなり評価されることなのだろう。そして、その人物に人物評価された曹操は、
名を広めるという意味でも、その後の展開に大きく寄与したことだろう。

辺境の地から出発し、地方で限定的に人気を得た劉備だが、人材集めに苦慮したのは、
権謀術数の問題も有るかもしれないが、情報力というもの、情報を流す方にも集める方にも
大きな力が無かったことが、天下を治められなかった原因の一つかもしれないと考える。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
ブログを作る(無料) powered by So-netブログ