So-net無料ブログ作成

王甫・・・演義と正史の異なる死亡 [三国志]

王 甫は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての政治家。字は国山。益州広漢郡郪県の人。
陳寿が記した三国志では、楊戯伝の「季漢輔臣賛」に記載されている。

風貌が凛々しく、人物評価や政治手腕に優れていた。はじめは劉璋に益州の書佐
(書記の事務を担当する者)として仕えた。後に劉備が益州を奪うと、綿竹県令となり、
次いで荊州議曹従事に異動となった。章武2年(222年)、劉備の呉討伐に従ったが、軍が
南郡秭帰県で敗北した際に戦死した(夷陵の戦い)。

彼の演義での死は正史と異なる。
小説『三国志演義』では、随軍司馬として関羽の補佐をつとめる。荊州を狙う孫権軍や、
荊州守備を担当する配下の糜芳・傅士仁・潘濬に警戒して、趙累を起用するよう進言する。
しかし関羽は特に心配せず、これらの言を採用しない一方で、有事に備えるために烽火台を
作るよう王甫に命令している。その後、呂蒙により烽火台は押さえられ、荊州は陥落。
関羽は、王甫の諫言を聞かなかったことを悔やむことになる。

王甫は麦城から逃れ出ようとする関羽に対して、間道は伏兵の危険があるため、街道を
進むべきと諌める。しかし、またしても関羽はこれを聞こうとしない。仕方なく王甫は、
周倉と共に麦城の留守を守ることになる。しかし、王甫の案じたとおり関羽は伏兵に捕われて、
殺されてしまう。孫権軍により掲げられた関羽・関平父子の首級を見た王甫は、その後を
追って櫓から身を投げ、自殺することになっている。

何故、彼の死は演義では異なる演出になったのだろう?
それは演義の”関羽優遇”の一端ではないか。つまり、関羽の敗北は彼の責任ではなく、
部下の不手際であることを前面に出す脚色を施したのではないか。
聡明な王甫に関羽の部下の人物の不安を語らせる。

関羽の神格化のために周倉という架空の人物を後を追ってしなせている。王甫の場合は、
弔い合戦で戦死した彼を前倒しで死なせることで、関羽がいかに部下に心酔されていたかを
描きたかったではないだろうか。

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

永安 [三国志]

何故か新年号が「永安」に決まったという夢を見た。

劉備最期の地。
縁起はよろしくないが、「とこしえに安かれ」は案外、使われやすそうな気もする。

まず間違いなく外れるとは思うが。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

諸葛亮が死を惜しんだ人物 [三国志]

「法正が生きていてくれたら」

劉備が関羽の報復戦である夷陵の戦いに敗れた際、諸葛亮は上記の言葉で嘆いた。

初めてこの言葉を見たとき「法正はそこまで評価されていたのか」と驚いた。
この発言は演義では見えない。何せ法正はいつ死んだのかも物語で触れられていない。

演義では「関羽や張飛のような人物が亡くなり、蜀に人物はいなくなった」という発言が
あるが、正史には見えない。

諸葛亮ほど権力を持った人物ともなると、なかなか特定の人物を褒めたりできなくなるのでは
ないか。あいつを褒めて自分は褒めないのか。そんな風にヘソを曲げられて、働きぶりが
鈍ることは損失である。

そのように考えると、この発言にはますます重みを感じる。
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

領土は奪えばいいものではない。 [三国志]

三国志の話。
やっとの思いで領土を奪っても、住民の反発を招き、税収を得られず、徴兵できなければ
無駄に領土を広げることになる。更に言えば、敵の反撃であっさりと奪還されれば徒労に
なってしまう。

魏が強大になれたのは、圧政に近い状態ながらも住民の大きな反発を招かず、
国力を順調に増強できたからだろう。華北を制することができたのは、盤石な国力を
得たことと言える。それこそ、三国の中で抜きんでた存在になれたゆえんではないか。

これをビジネスに”無理やり”たとえると(笑)、大安売りで新規顧客を得ればいいものではない。
しっかりとロイヤルカスタマー化しなければ、会社にとっての財産にならないという
ことか。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

諸葛亮はいつ天下三分の計を考えたのだろう? [三国志]

諸葛亮の代名詞とも言える「天下三分の計」彼はいつこの戦略を考えたのだろう?

早くとも官渡の戦い後の曹操が華北を制した後。
そして、孫権が江東を掌握した後であると断定できる。

そして・・・。

劉備が劉表の賓客になった後。曹操が北上している頃、ちょうど本拠を留守にしている頃
くらいではないかと私は思う。

天下の趨勢が決しつつあるものの、曹操の天下になるのは反対だ。
誰かを擁立して天下統一を防ぐには・・・。

三顧の礼により、劉備に招かれた諸葛亮だが、天下三分の計を構想する段階で
”身近な英雄”劉備を主と仰ぐことを含めて着想したのではないか。

そう考えて出た結論。諸葛亮は、劉備の一度目か二度目の訪問を受けた段階で、
天下三分の計を考え出した。
少し無理気味な推測だろうか?
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

蜀と今の日本の類似点 [三国志]

(注)かなり強引です(笑)。

1.GDP3位
2.超高齢化社会
3.移民を受け入れにくい体質
4.格差社会
5.何となく閉塞感

と、少しネガティブな要素で結びつけました・・・。

諸葛亮亡き蜀に似ていると言うと言い過ぎでしょうか?
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

傅肜・・・讃えられる敗将の最期 [三国志]

蜀漢の武将。荊州義陽郡の人。

劉備が呉に惨敗を喫した夷陵の戦いにおいて、退却する蜀軍の殿を務めた。

その際、呉の降伏勧告を受けたが「漢の将軍が呉の狗に降れるか」と罵って戦死した。

単純に戦況が不利になり、降伏を拒否して死んだわけではない。
後世彼が讃えられるのは、殿を務め、結果として主君劉備の退却を身を挺して守ったことにも
よるだろう。

更に言えば、彼の同僚で呉の降伏勧告を受けて降ったものもいたのだ。

苦境に陥っても自分を曲げず、最後まで節度を守った彼の最期。讃えられるのもうなずける。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

公孫瓚、意外と器の小さい人 [三国志]

公孫瓚は劉備の兄弟子に当たり、劉備が世に出るきっかけを作った人。
三国志演義での印象派悪くない。

だが・・・。

正史によると、公孫瓚は役人の家の子弟に優秀な人材がいると、決まって故意に困窮に陥れ、
凡庸な者を重用したとある。
公孫瓚は「役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、
自分がそのような官職につくのは(名声や実力から見て)当然だと考え、わしがよくして
やっていることに対して感謝しないだろう」と理由を挙げている。

後に袁紹と勢力争いをして滅ぼさる公孫瓚は、天下多事の際に有能な人材を手放してしまっていた
のだから、滅ぶべくして滅んだ感がある。

私には一つ疑問がある。くだんの有能な人材を嫌う公孫瓚が何故、劉備を陥れなかったかだ。
劉備は余程人を引き付ける徳が有ったのだろうか。

そして、演義は劉備贔屓であり、劉備側の人物の悪い面には触れない傾向にあるようだ。

公孫瓚の暗黒面については描かれず、悲運の英雄という印象が物語の中では与えられている。


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

臨機応変 [三国志]

この言葉を聞くと、三国志の諸葛亮評「応変の略はその長ずるところにあらずか」という言葉を
思い出す。

この評価は、陳寿が諸葛亮を快く思っていなかった表れとして酷評しているという見方がある。
一方で、「あらずか」の”か”は疑問を意味するのではなく、感嘆を意味すると言う人がいる。
すなわち「臨機応変のはかりごとは長所ではなかったのだなあ」という、酷評というよりも、
その長所でない部分まで孤軍奮闘しなければならなかった諸葛亮へのシンパシーのような
ニュアンスであると。

臨機応変。三国志で言えば曹操や、司馬懿といった俗っぽい言い方をすれば”勝ち組”の人間が
讃えられる評価。負けたり没落すると、袁紹や劉表のように時節を読めないと批判される。

臨機応変は大事なことだが、それに当てはまるかどうかは、結局結果を出したかどうかで
談じられやすい言葉のようだ。
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

徐庶の奇妙な冒険 [三国志]

三国志演義には多くの人物が登場する。「もっと活躍が見たかった」そんな思いをさせる
人物が数多にいる。徐庶はその一人。

徐庶。字は元直。彼は三国志演義では、一足早く諸葛亮より先に劉備に仕えている。
機略により曹操方の大軍を退けている。後に同じようなことを行った諸葛亮の
”プロット”のような活躍を見せている。その彼は母を人質に取られて、泣く泣く
劉備の元を離れ、劉備のもとを去ったことを怒った母に自殺されてしまう。

なんともやるせない三国志演義の徐庶。彼は諸葛亮の登場とともに物語から消えてしまう。
正史の彼はどうだったのだろう?

劉備に仕えて有能ぶりを認められたが、曹操の南下の際に劉備のもとを離れている。

次に名前が出てくるのは、諸葛亮の北伐の時期まで時間が飛ぶ。
諸葛亮は北伐を行なった際、徐庶と石韜の官職を聞き知って各々の才能に不充分と思い、「魏は取り分け人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか」と嘆いたという。

演義でこの話を採用しなかったのは、劉備の元を離れて曹操の配下になった徐庶を
”悲劇のヒーロー”としたかった心づもりからではないだろうか。
出世しなかった理由づけとして、劉備との別れの際に「曹操のためには一計も授けない」
と能力の封印を宣言させている。「もったいないな」それが読んでいたときの感想だ。

演義で諸葛亮の孤軍奮闘ぶりを読んでいると、徐庶が蜀にいれば、諸葛亮の心労が緩和できたの
ではないかと思い残念でならない。
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

何故三国志の時代の高齢者の活躍が多いのだろう? [三国志]

老”黄忠”の黄忠ばかりではなく、三国志の時代、高齢者の活躍が多い。

曹操の参謀だった程昱や賈詡などは70を越えても政権の中枢にあって活躍した。

鄧芝も七十を越えて軍隊を率い、三公の位に登り、後輩の宗預も高齢で高位にあった。

医学が進んでいたとは言えない三国志の時代。食べるものの質素さがかえって良かったのか。
厳しい時代が人を強くしたのか。少子高齢化を迎えている日本にとって、何か学ぶべきことが
隠されているような気がする。
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

諸葛亮とカルロスゴーン [三国志]

2人を対比して、共通点と相違点を挙げる。

【共通点】
•権限の集中
•組織改革者
•合理主義

【相違点】
•私服を肥やしたか否か
•恨みを買いやすいか否か

晩節をどう汚さずに済ませるかで、人の評価は
大きく変わる。

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

七十五万の大軍 [三国志]

三国志演義で二回は使われている表現。

官渡の戦いの袁紹軍。夷陵の戦いの劉備軍。

今の日本の軍人数は25万足らず。

三国志の時代は三国合わせてやった一千万くらい。

七十五万という数は明らかに誇張だ。


ちなみに蜀が滅んだ際の兵数は十万弱。

恐らく、大戦に投入できるのは国防に割く兵力を考えたら7万5千くらいがやっとではないか。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三顧の礼を尽くした劉備の決意 [三国志]

三国志演義のハイライトシーンの一つ。
三顧の礼。

今一つ飛躍できないでいた劉備の転機。

三顧の礼以前の劉備にブレインらしき人物はいない。徐州時代、陳羣を麾下に出来なかったのが
悔やまれる。

劉備は知識階級の人間から見ると仕えるには躊躇させるものがあったのだろうか。

司馬徽から諸葛亮の奇才ぶりを聞き、連れてきてくれと頼む劉備。だが、あっけなく、
彼ほどの人物はこちらか会いに行くべきと諭される。

あるいはこの段階で劉備は諸葛亮の器が相当のものだと思い、是が非でも迎えれたいと
思ったのかもしれない。

そして、一度めより二度目、二度目より三度目に劉備が諸葛亮を迎え入れたい願望が
強まったのではないかと思える。

劉備は、もう後がない状態だった。起死回生の何かが必要。その何かを諸葛亮と
思い、どんなことも厭わず諸葛亮を迎えようと決意した。私はそう考える。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志演義の善政 [三国志]

・緩やかな課税
・役人の不正を抑える
・賦役を軽くする

こんなところか。


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

魏の死角 [三国志]

三国志時代の圧倒的な強国魏。
正直な話、2位呉に10ゲーム差、3位蜀に15ゲーム差をつけた首位という印象(微妙な
表現(笑))。

魏に死角はあったのだろうか?

政治は民が重税で疲弊気味だが、深刻な反乱がおきるような治政ではなかった。
異民族の反発も、北方の公孫氏が少し面倒な程度。
曹丕の皇族の力を抑えるやり方は内部抗争を防いでいた。

魏はまさに今の中国にアメリカという存在が見当たらないような状況ではないだろうか。

蜀や呉は小うるさい存在だが脅威ではなかった。魏の死角は外部からの軍事行動で
無理に作る以外有効な策は無かったのかもしれない。諸葛亮の北伐は、魏に異変を
生じさせるための行動という意味合があったように思える。

蜀が内政を固めていれば、魏はますます強固になっていたであろうこと、想像に難くない。
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

孔明は孟達をどうしたかったのか? [三国志]

主君劉璋を裏切り益州に劉備を迎え入れたメンバーの一人孟達。
同士の張松は裏切りが露見し殺され、法正は長用されたものの、早くに他界した。
孟達は・・・。

首都成都から離れ、劉備の養子劉封と共に魏との国境を護らされるも、関羽の
援軍を拒否し、劉備に恨まれることを恐れて魏に降服。魏で曹丕に優遇されたが
曹丕が死ぬと居心地が悪くなった。そして・・・。

蜀からの寝返りの誘い。孔明は孟達に連絡を取ろうと、言いだしたが、費詩にあんないい加減な
男に声をかける意味は無駄と戒められ戸惑った。

孔明は孟達を有能と思ったのだろうか?私はそうは思わない。寝返りに応じそうな
男として目をつけただけだと思う。だから、孟達が魏への反逆がばれて征伐の軍を
向けられたときに助けようとしなかった。

戦略的にはもったいない話だ。孟達を利用して領土を得る機会を逃したと私は
思っている。

孔明にも人の好き嫌いがあり、孟達は法正と違い許容できる人間ではなかったのだろう。

そして、孟達という人間を利用できなかったことで第一次北伐の失敗の兆しが
はっきりとしたと思う。
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

トランプは董卓? [三国志]

個人的には、それなりに真面目にそう思っている。

時流に乗じて政権の座を得た点。
横暴な点。
世の中を暗くしている点。
単なる馬鹿ではなく、狡猾な点。

トランプの末路は、董卓のように飼い犬に手を噛まれてジエンドか?
そんな事態になっても不思議には感じないが・・・。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

向朗・・・演義では活躍が無い蜀の大物 [三国志]

向朗は、中国後漢末期から三国時代の政治家。蜀漢に仕えた。字は巨達。甥は向寵。
子は向条。荊州襄陽郡宜城県の人。

若い頃、司馬徽に師事した経緯や、生まれが荊州であったことから、徐庶・龐統・韓嵩らと
親交があった。学門の道よりも政治の道を選び、刺史の劉表に仕官して臨沮県長となった。
劉表死後は劉備に仕えた。行政能力に優れ、荊州南部4郡を得た際は秭帰・夷道・巫・夷陵の
4県を任された。入蜀後は巴西太守・牂牁太守・房陵太守など、郡太守を歴任した。

劉禅が即位し、諸葛亮が丞相になると歩兵校尉となった。王連の没後は彼に代わりその長史
(幕僚の長)となり(王連伝)、225年の南征の際に留守を守った。

227年、北伐が開始されると、留府長史が張裔に交代となったため(楊洪伝)、漢中に赴いた。
しかし向朗は平素より馬謖と親しかったために、街亭の戦いでは馬謖が戦場から自分の下に
逃亡してきた際に黙認した。このため諸葛亮に恨まれ免職された。
かつて廖立は、「向朗は昔から馬良兄弟を奉じて聖人と言っており、長史にするのは道理に
合わない」と批判したが、それが的中する形となった。

しかし数年後、光禄勲として復職を許された。諸葛亮の死後は左将軍・行丞相事に昇進した。
その後、さらに以前の(街亭の戦いを参照)功績が評価され顕明亭侯に封ぜられた。
位も特進(三公に匹敵する待遇)に昇進した。

若い頃から学問を好んでいたため、長史を辞めて公務から解放された後は、古典の研究に
勤しむようになり、80歳を過ぎても自ら書物を校訂してやまなかった。
多くの客と接し広く弟子たちを受け入れたが、古典の語義のみを話題とし、世相については
関わろうとしなかったため、賞賛された。247年に死去した。

彼は何故演義で取り上げられなかったのか?

馬謖の一件が複雑のものになることを嫌ったのか。それとも政治家としての一線を退き、
穏やかな余生を少した彼は、”悲劇的な蜀”としての色付けからは遠い存在だったからだろうか?

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志時代の知識階級 [三国志]

三国志時代の知識階級には無冠の人が多かったようだ。
軍閥政権で働くことを嫌ったのだろうか。
世俗的なことに背を向けて生きることが高尚な生き方とみられていたように思える。

そう考えると諸葛亮が出蘆を躊躇ったのも理解できる。

なかなか難しく厳しい時代だった。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

劉備の逃げるは恥ではない。 [三国志]

劉備という人、実によく逃げた人。
呂布から逃げ、曹操から何度も逃げ、最後は陸遜との闘いからも逃げている。
だが・・・。

これだけ逃げれば臆病者と蔑まれ人望を落としそうだが、そうではなかった。

彼の逃げるは、逃げなければ死ぬような不利な局面。意地を張って無駄死にしなかった証。

更に言えば劉備は逃げた後の出処進退ぶりが鮮やか。
曹操の庇護になり、袁紹や劉表の食客として厚遇されている。

劉備は逃げ上手の人だと言えると思う。
そこから現代人が学べることも有るのではないか。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志末期の若者 [三国志]

三国志末期は、若手の台頭がほとんど見えない。
何せ六十越え、七十越えが上層部で活躍しているケースが多い。
高齢者が頑張っている一方で若者に夢が無かったのではないか。

歴然とした国力差に、蜀呉は将来が不安。逆に魏は目標を持ちづらかったのではないか
等と考える。

今の社会に似たものを感じる。
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

同じ逸話に対する対照的な評価 [三国志]

正史三国志では異聞なども含めると実に様々な出来事の記録がある。
そして、その出来事に対する評価は人によって様々な違いがあることが多い。
もちろん、満場一致の場合も有るが。

対照的な評価に分かれている例の一つが以下の話。

244年の魏軍による漢中侵攻の際、出陣直前に来敏が費禕を訪ねてきて
「しばらく君と会えなくなるから、日頃の囲碁の決着をつけておこう」と申し出た。
費禕は勝負を受け、二人で囲碁を指し始めたが、出陣に際して周囲が慌しくなってゆく様子に、
来敏の方が耐えられなくなり「君を試すつもりで勝負を申し出たが、この度胸の据わり具合ならば、いざ前線にあっても何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した。
果たして費禕が前線に赴き、既定の方針に従って指揮を執ったところ、見事に魏軍を撃破し
退けたという。

この逸話に対する対照的な評価。

まず、”プラス評価”
これは費禕が事前に物事を計算して準備をする人物であり、なおかつ落ち着いて余裕の
ある人物だったと賞賛する評価。

”マイナス評価”
費禕の最期は油断して魏から降った人物に心を許して宴会で暗殺された。
費禕は小国の宰相であり、もっと慎重に処すべきだった。大事な国防を前にして
囲碁に興じたのは、彼が油断から暗殺される前兆だったと。

私は思う。逸話に対する評価は、結局のところ、対象となる人物そのものの評価とリンクすると。
費禕の能力を評価すれば前者。費禕を全面的に認められなければ後者になると。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

蜀と恩赦 [三国志]

諸葛亮は悪人に寛容は必要ない信賞必罰の原則を守るため恩赦を行わなかった。
だが・・・。

寛大に過ぎる嫌いのある費禕は恩赦を行った。費禕のことを個人的に嫌いではないが、
蜀の緩みはこの辺で出だしたのではないだろうか。

もっとも蜀には切実な事情があり、末期、姜維の北伐失敗で減少していた兵を補うために、
恩赦で罪人を兵力に組み入れる苦肉の策を取っていたという見方もできる。

そうだとしても貧すれば鈍すると思えてならない。

蜀の末期は諸葛亮が築き上げたものを色々と崩壊させている。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志時代の隠者の考え方 [三国志]

三国志の時代は世間と交わらず、静かに隠棲する生き方がそれなりに評価されたようだ。
乱世。どこの勢力に属しても軍事政権。人を殺すことを否定するならば、世を捨てて
晴耕雨読の毎日を過ごすのが望ましい時代だったのかもしれない。
むしろ、世に出れば、多くの人を犠牲にする首謀者になることを嫌い、社会に出来ない
生き方を好んだのではないだろうか。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

馬謖を重く用いるな。 [三国志]

劉備が生前諸葛亮に伝えたこと。
劉備の目には、馬謖という人物は実力以上の発言をするが、中身は伴わないと映ったようだ。
更に言えば、敢えて劉備がそれを諸葛亮に伝えたのは、以下のような理由だろう。

諸葛亮は馬謖を高く評価している。忠告しなければ、諸葛亮は馬謖を信任して重要局面で
起用して致命傷を蒙るだろうとう劉備の予感。

正史三国志の劉備に関する記事は、劉備の人物鑑識眼を絶対としていない。一方で諸葛亮は
後年、蜀政権の人材登用を幅広く行い成功させている評価の向きである。

馬謖を重く用いるな。その発言の裏には、諸葛亮には感じ取れない質の要素を劉備は
読み取り、それを重大事と劉備は考えて諸葛亮に伝えたかったという構図が見える。

何よりもこの助言を無視した結果招いた損失との関連性が、発言の正しさに重みを与えている。

個人的には演義で是非話の伏線として「馬謖は・・・」の劉備発言のくだりを脚色して
欲しかった。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

董卓が天下を取っていたら・・・。 [三国志]

天子を奉戴し、権威を握り、自身を討伐するための連合軍に戦闘では勝てなかった
ものの、相手の不和と遷都で乗り越えた董卓。董卓は呂布たちのクーデターが無ければ
それなりに天下を牛耳ったかもしれない。
文官も王允ら有能の士を抑えていた。恐怖政治で富豪から財産を取り上げて私服をこやし
民衆を苦しめる。

何とも現代のどこかの国を連想してしまう。

デブでみにくい体型。それでいて軍事はそれなりの才能。人材登用も文官を要所で
任用し、恐怖で縛る。金と軍を握るこの男は一つ間違えると天下を握り、曹操や袁紹も
容易に除くことが出来なかったように思える。

そして、董卓が討伐されたことは、当時の世の中にとって良いことだったと信じる。
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天下三分の計に対する疑問 [三国志]

諸葛亮の大いなる謀りごと。
天下三分の計。
それが三国鼎立を目的としたものであれば、成功と言えるが・・・。

天下統一を目的としたものであるとすると大きく二つの疑問がある。

一つは時間の問題、もう一つはそもそもの計略の前提の蓋然性。

一つ目の時間的問題。それは彼が三顧の礼で迎えられたときの劉備の年齢がすでに四十代
後半であること。諸葛亮は何年で天下を統一するつもりだったのか。
この時点での最大勢力者曹操が旗揚げから約20年経過して、その時点の勢力分布が
出来上がっており、それを20年以内で覆すのはなかなかの至難の業。

二つ目は、荊州と益州を領有し孫権と組んで曹操に当たり、二方面から魏を攻略するという
前提。
まず荊州がそんなに簡単に劉備のものになる可能性が有ったのか?
地元の有力者蔡瑁はしっかりと権威をふるっており、にわかに劉備のものに出来たとは
思えない。跡目争いも長男が優勢で劉備に地元人気が有っても、良くてせいぜい
内部分裂という事態がせきの山で平和裏に劉備が荊州の主になると思えない。
そして、荊州が自由競争状態になると、孫権も荊州に虎視眈々であり、荊州を領有して
孫権との同盟を両立させるのは困難。事実その通りだった。

天下三分の計は、その状況にあってはベストソリューションだったかもしれないが、
穴の無い計画ではなかったというのが私なりの結論。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

三国志時代の長期政権 [三国志]

三国志で長期政権と言うと良い印象が無い。
孫権と劉禅。
腐敗という言葉が似合いそうだ。
孫権は老害だった。晩年の孫権は功臣陸遜のことまで、佞臣にたぶらかされ、陸遜を問責し、
憤死させている。後継者争いで政治を混乱させている。重税で民衆を苦しませている。
劉禅も宦官を寵愛したり、有能とは言い難い臣下に重責を与えている。

今の中国で長期政権が成り立つとどうなるのだろう?
嫌なものしか感じられない。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

GDPと兵力で考える三国志 [三国志]

三国志という時代。
一般に魏と蜀の国力差は絶望的なまでに開きがあると言われる。
それでも、形の上では蜀が北伐という攻勢を取れたのは?

人口では魏が440万人。蜀が94万人。
一人当たりGDPで蜀が魏の4.5倍無いと蜀は魏の国力を超えられない計算になる。
蜀は滅亡時、兵士数が約10万。9.4人に一人が兵士という計算。
魏に当てはめると、魏は44万人兵力を持てることになる。

たとえ魏が領土広く、蜀呉の二国を相手にしないといけない状況にあっても、
政治の機能が余程蜀より劣らなければ、その差は埋まり難い。

蜀に勝つチャンスは、国力や兵力ではなく、魏が政情不安だったり、漢室再興を望む
魏領土内の勢力が蜂起することのように思えるが、三国志時代は、魏も圧政に不満を
持たれながらも一応の支持は得ており、何よりもすでに「漢室」を望む声は無かった。

となると、諸葛亮の政治手腕以上に、奇跡的な技術革新で、国力が驚異的に伸びたり、
兵器の威力が恐ろしい効果を示す発明でもなければ、逆転が難しいと言えないか。

益々、出師の表の諸葛亮の「厳しい現実」状況説明が鮮明になる。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感
ブログを作る(無料) powered by So-netブログ